設立趣旨・ビジョンPURPOSE・VISION

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フィリアボクシングジムの設立趣旨

近年この日本も凄惨な青少年犯罪あるいは想像を絶する親の子にたいする虐待劇、その頻度の多さに唖然とする、いわば終末感にまみえている風がある。
ひとえにこれは歴史、文化、その他あらゆる外的要因とされる対人間への価値基準が大きな崩れを、いまここで絵空事ではなく、生身の現実として、追体験しているあらわれであろうかとおもわれる。
つまり、かっては「人間」とは魂としての、その人だけの唯一のらしさの鑑であったものが、単なる形骸化したもくろと化し、生産性という脅迫暗示に人は人を「役に立つ」記号の延長としかみなさなくなった疎外感を目の当たりにするということでもある。
これは人間が破壊されている、という現在進行形のはなしであり、このヒズミの代価はあまりにも高い。人が人として「いきる」にはエネルギーがいる。
しかしそのエネルギーには二つの顔がある。殺し食い散らすエネルギーと、ひとを生かすエネルギーだ。
サディズムとマゾヒズムという近代心理学の代表選手も、要するに「イノチあれかし」と願う魂の根幹に巣食う寄生虫なのだ。イノチの根っこをいつしか枯らしてしまうのだ。
ここではエネルギーは通い合わないのだ。ただぶち込むのだ。鬼の形相をした主人と卑屈な奴隷とのおしきせのエネルギー交換があるのみ。
エネルギーの共有ではなくエネルギーの剥奪なのだ。
言霊という言葉、これは人が言葉を共有するときのエネルギー交換の熱気でありイノチそのもの。エネルギーが互いに向き合いすんなり行き来できるとき、われわれは「優しく」なれる。恋しいと思うのだ。
ひとりひとり各人各人の、人生の「悲喜劇」という小宇宙をもつ。
我々はまがまがしい件の殺人鬼のエネルギー体と「イノチあれかし」のエネルギー体の二つを同時にうちに秘め、ただあがくのみなのだ。我々は人と関わろうとして逆に益々大きな壁を自分の周りにおく。内へ内へとエネルギーは浸潤し、暴発寸前の渋滞を起こしているのだ。
平和という美名の背後でその無惨な殺人鬼があらゆる「イノチのほむら」に抗して牙を研いでいるのだ。
一歳に満たないわが子を一週間アパートにとじこめ餓死させた母親がいる。ボーイフレンドと遊びほうけていたらしい。その子は、生きたいと最後まであらん限りの叫びを何者かに向けて、とりわけ母親に向けて発していたに違いない。その子にだれも応えてやらなかった。
その子は死んだのだ。
われわれは実際こう言った断末魔の叫びをいつもどこかで聞いているに違いない。ひきこもり、いじめ、家庭内暴力、こどもへの虐待等、こう言った社会現象も、先のいたいけない悶死の子供たちの惨劇と、根っこのところでは共通項をもっているのだ。
加害者と被害者の背景にあるのはエネルギーの行き来が途絶え「イノチ」の信号がオフだと言うこと、明かりのささない「闇」にあるということである。
「イノチ」というカテゴリー、我々はこのことを、現在のような輻輳たる社会のなかでより具体的な直接的な意味合いで捉える必要がある。イノチといえば必然、「愛」という言葉が浮かぶ。日本風に表現すると「思いやり」。
つまりイノチの顔が「愛」なんだと思う。ひとを思いやるとは具体的には、何か?それには三つの要素があるとしかいえまい。責任・忍耐・集中力。責任はその意味するところ、人の問いかけに応えるRESPONDということ。忍耐とは信じて待つということ。集中力とは無私の注ぎ。これらが三位一体のごとく不断にわれわれをつきあげていくならば、死の香りとしてのエネルギー遮断、病的でトンチンカンな腐ったエゴイズムにくっすることはもはやありえない。我々はまさに人になるのだ。
人格的にいい人になるのではなく、ただ「人」になるのだ。
 フィリアボクシングジムは、そう言った理念の一端を担って結成されたグループであります。ボクシングを手段として集中力を養い、責任のある人間となり、友や隣人のために耐え忍ぶ教養をみにつけ、ひろく世界にとびだし、世に捨て去られたひと、弱きもの、世に容れられぬひとに手をさしのべ、ひとえに義にかわいたひとたるべくチャレンジする、つくりゆく集まりです。
とりわけ、非常に困難な「いじめ」「ひきこもり」「虐待」対策のうち一等ハードな部分、引き受け作業に焦点をあて、いくばくかの寄与ができればと祈念する次第です。
以上
フィリアボクシングジム会長 裵 一

フィリアボクシングジムが掲げるビジョン

友愛(Philia)の精神をもって、信義を生涯の理念として社会参加すること。
ボクシングは四角いリングの上で自己を表現する芸術である。思い切り自らのエネルギーを出し、相手のエネルギーを受け止め、その総和としての可算値で、勝利(Victory)を決める、格闘技でもある。
だから、言ってみれば「赤裸な人生の競技場(アリーナ)」の凝縮のようでもある。
勝ちもし、負けもするが、決して屈することのない精神がたたえられる。人々はそこに「元気」をもらう。
そして、弱い者の側、強き剛としての「権力」に汲みしない「反骨」にやんやの歓声をあげる。
格闘技の真の社会的意義はそこにしかない。「水滸伝」の「梁山泊」(りょうざんぱく)はそのプロトタイプ(原型)。
フィリアジムは、その精神を踏まえ、さらに坂本龍馬が北辰一刀流の相手の刀(たち)筋を読む極意を、時代を読むことに反映させたように、この混沌(カオス)の時代を読み、希望を掘り起こす作業に私心を捨て、取り組むこと。
ここに尽きる。その信念を日々新たにしていきたい。
以上
フィリアボクシングジム会長 裵 一